弔 辞
工藤美信さん、呼びかけても、もう何も答えてはくれないのですね。亡くなったという悲しい知らせを受けた時、25年の歳月が走馬灯のようによみがえりました。
戦争の混乱の中、中国残留孤児となった美信さん。その貴方を守り育ててくれた中国人のおばあさんと奥さん家族11人で能代市に永住帰国したのは、25年前の平成3年2月のことでした。
能代に初めて永住帰国した家族ということで、当時の地元の新聞には大きく取り上げられましたね。厚生労働省の指示で、貴方たち家族のために、自立更生を兼ねた日本語教室が開かれることになり、当時自立指導員で日中友好協会副会長だった今は亡き長谷川先生を含め3名が講師に任命され、その一人に若輩者の私が入ったのが、美信さん家族との出会いでした。
日本語指導のノウハウも知らなかった当時の私には荷が重く感じましたが、美信さんの家族と触れ合う時間が増えるごとに、泰然自若とした中国のおばあさん、家族思いの美信さん、やさしくしっかり者の奥さん、年上を敬う真面目な子供達の様子を拝見し、これが本物の中国の家族であり、中国という国の人たちなんだと知らされました。私が中国を嫌いにならないのは、美信さん、貴方と家族との出会があったからだと確信します。
日中友好協会会長中田栄喜様の御厚意で仕事が見つかり、自立しようと頑張る家族でしたが、さまざまな障壁や困難もありました。
貴方との思い出で忘れられないことがあります。ある時、一生懸命頑張っている貴方達に差別やイヤな思いをさせる人がいる現実に、同じ日本人として申し訳ないと謝ったことがありました。 その時、貴方は言いました。「日本へ来たことが本当に良かったのか悩んだこともありました。でも、私たちのことを心配してくれる貴女は日本人です。中国にも、いい人もいるし悪い人もいる、日本人だって同じです。私は私たちを応援し支えてくれる日本人がいてくれたから、日本に来たことを後悔しないですみました。日本語を教えてくれて本当にありがとう」
貴方のことばを聞いたとき、日本語を教えることの本質を知らされた気がしました。私が日本語指導のプロを目指そうと思ったのは、貴方の言葉を聞いてからでした。
美信さん、中国人の母親に愛され生きた50年。そして日本へ永住帰国してからの25年。ずっと寄り添ってきた私には、どちらが幸せだったかと聞くことはできません。
しかし、これだけは貴方に伝えたいと思いました。
突然の貴方の訃報でしたが、それぞれに自立している子供も孫も家族全員、誰一人欠けることなく集まりました。貴方の眠っているような安らかな顔に安堵しながらも、その貴方を火葬しなければならない日本の風習に困惑し泣き出す娘さんたちがいました。でも、その娘さんたちを受け止め抱きしめたのは、御主人でありお孫さんたちでした。
美信さん、貴方も戦争による犠牲者の一人だと思っています。奥さんも子供たちも、文化も言葉も違う日本へきて苦労しました。しかし、その苦労は確実に実っていると思いました。
永住帰国した時、中国人の母親を中国に残してこれなかった、子供たちを誰一人中国において来たくなかったと言った貴方を、わがままだと責めた人たちが居ました。あれから25年、あなたの優しさや家族を思う気持ちは間違っていなかったと思います。
中国人の寛容さと日本人の思いやりの心を持つ孫たちを見て確信しました。お孫さんたちは、二つの国を祖国に持つあなたを誇りに思ったっことでしょう。あなたの子供たちは、あなたを日本人としてお墓に入れたいと望みました。住職のご厚意により、戒名もいただきました。日本人として本当の意味の安住の場所を作っていくのは、子供たちです。どこの国で生きていこうと、人の優しさと相手を思う気持ちに変わりはありません。それを伝えてきたあなたと奥様に、心から敬意を表したいと思います。
残された奥様と子供たちをこれからも見守って下さい。あなたの優しい笑顔を思い出しながら頑張って生きていくと思います。にこやかな笑みをたたえた美信さんのお写真を拝しつつお別れいたします
どうぞ安らかにお眠りください
平成28年12月29日
のしろ日本語学習会 代表 北川 裕子